どことなくなんとなく

研究の息抜きに綴る適当な文章

曖昧さ

物事には「絶対」というのは絶対にないと固く信じているので、色々なことを記述する時に断定形にするのが躊躇われます。

特に研究に関しては、断定することの方が稀です。

「こういう条件では、このような結果になりました」とか「~という可能性も考えられます」とか、「~かもしれません」とか。

全ての条件での実験を行なうことは不可能であるため、研究結果には常に「限定条件」が伴います。

「10週齡のマウスを一週間環境に慣れさせた後、ストレスを加えたら、特定の遺伝子の有無によって行動に差が生じたため、この系ではこの遺伝子の役割はこのように考えられます。」のように沢山条件がつきます。

「じゃあ、その遺伝子はストレス反応に関係してるの?」と聞かれた場合、「少なくても今回のストレスに関しては、マウスでは関与していると思います。他のストレスについては検討していないので分かりません。他の動物の場合も分かりません。」が限界ギリギリの答えです。

でもこれってのは非常に分かりにくいと思います。

「この遺伝子を活性化させれば、ストレスに強くなる!」と言ってしまった方がずっと分かりやすい。

しかし、正確ではなくなります。

周りを見渡せば、分かりやすさの代償に正確性を失った情報があまりにも多いことに気付きます。

テレビや雑誌の健康特集みたいなものはその典型ですが、ちょっと注意して観察してみると、結構多くの情報が分かりやすくカスタマイズされています。

そして、その分かりやすい情報に慣れきっているように感じます。

その情報に対して疑念が湧かない、批評する気が起きない。

分かりやすいということは即ち理解が容易いことであるため、「正しい」と思い込みがちだと思います。

テレビや何かは、その辺を確信犯的にやっているのではないかと。

偉そうなおじさんが白衣を着て、沢山の専門書が並んでいる部屋で「ヨーグルトは花粉症に効きます」と言えば、小道具や舞台装置としても完璧です。

テロップで「○○大学教授」とか書いてあれば、言うことありません。

私はなるべく正確に物事を伝えたいと考えています。

だから私が物事を断定せずに曖昧に曖昧に言葉を選んで話していたとしても、それは正確に表現するためであって、決して有耶無耶のままで適当に誤摩化してしまおうとか、そう言う意図ではないと判断して下さると、とても誤摩化しやすいです。