どことなくなんとなく

研究の息抜きに綴る適当な文章

余白があるので

フェルマーさんは、後に彼自身の「最終定理」と呼ばれる定理を記した際に、こんなことを書き残しています。

「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」

カッコ良すぎます。
ちなみにサイモン・シンの「フェルマーの最終定理ーピュタゴラスに始まり、ワイルズが証明するまで」はかなり面白いので、おすすめです。

私はフェルマーさんとは対照的に、余白が多すぎるんです。
眠れないからブログでも書こうと思ったものの、とりわけ書きたいネタがあるわけでもない時のブログのエントリ入力欄には。
まだまだ余白だらけです。

そんな時には「こんなんじゃ全く言い足りない!まだまだ書きたいことがあるんだ!」と燃えていたあの頃の、情熱に満ちあふれたエントリを参考にしてみれば良いんです。
昔取った杵柄。
温故知新。
ネタのリサイクルにもなりますし、エコな気持ちにもなるようなならないような。
夜中の2時に無駄な電気を消費してエコな気持ちに浸るのも、なかなか粋なものです。

と言うことで、3年前、2005年12月8日のネタを再利用です。
ネタだけを拝借して新たに書き起こそうかと思ったのですが、急に面倒になったのでコピペで誤摩化します。
情熱は全く参考にできませんでした。

どことなくなんとなく;運の残量(2005年12月8日) 

運の良し悪しって何なんだろうと思いました。
実力があっても運が無くて貧乏クジを引いてしまう人が居る反面、実力以上のものを獲得できるような運の良い人も居ます。
「運」って、一体なんなんだろうと。

話を簡単にする為にジャンケンで考えます。
お互いにランダムにグーチョキパーを出した場合、ジャンケンで勝つ確率は三分の一です。
運の良い人は、例えばこの確率を上げられるのでしょうか?
例えば二分の一になるとか。
しかし、完全にランダムであった場合、統計的に試行回数が増えるごとに三分の一へと収束していくはずです。
運の良し悪しが入り込む隙はないように思います。

恐らく、ここでポイントになるのは「試行回数が増えるごとに」です。
じゃあ、試行回数が一回しか無かったら。
その一回が、人生を賭けた勝負だったなら。
確率としては三分の一ですが、ここで勝てるか勝てないかが非常に大きなウエイトを占めているような勝負の時に、その三分の一を手繰り寄せることができることが、「運の良さ」なのではないかと思いました。
人生のトータルでは、恐らく運の良い人も運の悪い人も同じ三分の一です。
勝負所で勝てる人が運の良い人です。
どうでも良いところでは負けてもいいんです。
統計的に三分の一という上限がありますから。

今日、ジャンケンに勝ってしまいました。
どうでもいいジャンケンだったんですけど。
ひょっとして運の残量がちょっと減ったのかな?

「運の良さ」については最近、この頃とはもう少し違う捉え方もしているのですが、それを記すには余白が狭すぎるので、今日はこの辺で。