どことなくなんとなく

研究の息抜きに綴る適当な文章

ダメなもんはダメ

情緒不安定というか、何となく精神的に不安定な時期があります。

例えば、そのような時に何かをやらかして逮捕されたとしたら、多分こう答えると思います。

「ムシャクシャしてやった。反省はしてない」

例え話ですよ。

この「ムシャクシャ」やあるいは「カッとなった」などという言葉は、ある意味とても便利です。

感情の類型的表現というか、テンプレートというか。

つまり「ムシャクシャ」と表現される気分であっても、人によって、状況によって、千差万別だと思うんです。

でも、その感情(に類する感情)に「ムシャクシャ」という言葉を当てはめることによって、この感情は「ムシャクシャ」として成立します。

この感情は「ムシャクシャ」だと認識することによって、「ムシャクシャ」した気分になる。

気分を予め用意されていた「ひな形」の言葉に当てはめることで、その「ひな形」の気分になる、という解釈です。

「恋愛感情」に関しても同様だと思います。

「恋愛感情」は正に千差万別、十人十色。

おそらく、人によって全く異なった感覚を「恋愛感情」として認識しているのではないかと思います。

「この気持ち」を「恋愛感情である」と類型化、定型化することで、その気持ちは「恋愛」になる。

つまるところ、「感情」というのは「テンプレートのボキャブラリー」次第なのかな、と思いました。

ここでちょっと逆に考えてみます。

「こういう気持ちになりたい」と考えることで、その気持ちに近づけるのでしょうか。

今のこのやる気の無い感情が、自分で道を切り開くんだ!という強い感情に変わるのでしょうか。

そういう言葉を頭の中でイメージしてみます。

どうせイメージするならカッコいいほうがいいです。

好きな言葉の一つに、ARMSという漫画のキース・バイオレットという人物が言った言葉があります。

この言葉をイメージしてみます。

人の足を止めるのは、「絶望」ではなく「諦観」

人の足を進めるのは、「希望」ではなく「意思」

初めてこの言葉を見た時は、「カッコいー」ともんどりうってゴロゴロ転がったものでした。(横になりながら漫画読んでたので)

このような、強い意思を持つ気持ちになりたいです。

というわけで、「今日はもう帰る」という強い意志のもと、帰路につくことにしました。

だってやっぱりやる気にならなかったんだもん。