無色透明
無味無臭。
当たり前に存在するものほど、意識にはのぼりません。
空気を意識する時は向かい風の時くらいですし、水を意識するのは喉が渇いた時くらいです。
しかし、空気にしても水にしても、当然ですけど無くてはならないものです。
じゃあ、水や空気と同様に、普段当たり前だと思って大して意識していないことこそが、本質的に欠くことのできない重要なものなのではないか?と思うに至りました。
そう思って、自分自身が何を当たり前だと思っていて、実際にそれが無いと非常にどうしようもなくなるものは何だろう、と考えた結果、一つ思い当たるものがありました。
それは、言葉。
聞けて、話せて、読めて、書ける。
これらが出来なくなると、私の意思そのものが根本から揺らぎます。
私の殆ど全てが、この言語能力に立脚しているからです。
普段勉強できるのも、情報を収集できるのも、漫画を読めるのも、ブログを書けるのも、当たり前だと思っていました。
日本は識字率がほぼ100%であるため、「当たり前」なんですよ。
しかし、日本以外では決して当たり前ではない。
昨日だったと思うんですが、News Japanでルワンダのことをやっていました。
内戦の影響で、学校に通えない子供や通ったとしても充分な教育を受けられない子供が沢山居るようでした。
そしてインタビューには「学校に通って勉強がしたい」と答えていました。
「どうにかしなきゃ」とか「可哀想」とか、そんな一元的な感情論を持ち出すつもりは毛頭ありませんが、彼らと自分の立場の違いというのを意識することは有意義であると思います。
自分は勉強をしようと思えばいくらでも出来る立場にありますし、それだけの環境が揃っています。
本があって、字が読める。
食べ物を残すと「世界中には食べられない人達が沢山居るんだよ。残さずに食べなさい」のようなことを言われる状況があり得ます。
無駄無くしようという意識です。
同様のことが、知識に関しても言えるんじゃないかと思いました。
勉強できる能力が有って、環境に有って、それにも関わらず勉強しないというのは、どうなんだろう、と。
もちろん「勉強」には色々な要素が含まれているので、単純に学校でやるようなことだけが勉強ではありませんけどね。
せっかく揃っているインフラを最大限有効活用して、自分の興味あることを突き詰めていければいいんじゃないかな、と思いました。
仕事でも趣味でも何でも良いと思うので。
と言うわけで、漫画「嫌韓流」を読了。
面白かったよ、貸してくれてありがとう(私信)