どことなくなんとなく

研究の息抜きに綴る適当な文章

歯車

腕時計の裏側がスケスケなので、気が向いた時に中を見ます。

そうすると歯車がただひたすらに、時を刻み続けています。

この歯車はずーっと同じことしかしませんが、この歯車が壊れると時計としての機能が損なわれてしまいます。

そういった意味で、この歯車は替えの利かない唯一無二のものです。

同じことをずっと繰り返していると、違和感を感じることがあります。

例えば同じ文字を書き続けているとその文字が「文字」として感じられなくなり、ただの「図形」、あるいは「点と線」といった「要素」にしか認識できなくなったり。

例えば「を」という字をずっと見ていると、文字ではなく「絵」、「水たまりに足を入れようとしている人」のように見えてきたり。

慎重に足を入れようとしていて、手まで広げちゃって、チャーミングな人に見えますよね?

このような現象を「ゲシュタルト崩壊」と言います。

ゲシュタルト」とは「全体性を持ったまとまりのある構造」のことです。

よく比喩として企業や組織の一部となって働き続けることを「歯車」と表現することがあります。

全体の一部としての「歯車」、同じことを繰り返すだけの「歯車」。

あえて「ゲシュタルト崩壊」を本来の意味合いとは違った意味に用いると、「組織」という「ゲシュタルト」の中で同じことを繰り返す「歯車」が「ゲシュタルト崩壊」を起こすことで組織の中の「要素」、つまりは「自分」の有り様に違和感を感じてしまった場合、「組織の歯車なんかで居られるか!」という、変化を求める気持ちが生まれてくるのかもしれません。

しかしここで勘違いしてならないのは、「歯車」には替えが利かないという事実です。

果たして実際のところ、どれほどの人が間違いなく「歯車」として存在し得ているのか、非常に興味のあるところです。

「歯車なんかで居られるか!」と目覚めてしまった人でも、実は「歯車」足り得てなかったとしたら、中々シュールです。

自分は今のところ、まだ「歯車」にはなってません。

替えが利きますから。

出来るだけ速く「歯車」に、それも同じことの繰り返しの中から変化していくことが出来る「歯車」になりたいと思った週末でした。