どことなくなんとなく

研究の息抜きに綴る適当な文章

purify

人間は単純化すると膜に包まれた肉です。

魚肉ソーセージと同じです。

違うのは、魚肉ソーセージはそこにあるだけなのに対し、人間は良くも悪くも色々考えることです。

魚肉ソーセージは10本あっても魚肉ソーセージのままであるのに対し、人間は群衆と言う別の力学が働く群体へと変化することです。

つまり、誰であっても個人としての側面と集団としての側面を持っていると言えます。

人間から魚肉ソーセージの部分を取り除いてみると「考えること」が残ります。

個人であればいわゆるアイデンティティと呼ばれるもので精一杯ですが、集団としては主義や思想と言う、ちょっと大袈裟なものになります。

ちょっと違っただけで喧嘩の元になる面倒なものです。

こうしてブログに書いているような文章には、私の個人としての「考えること」が色濃く反映されています。

そして一回アウトプットしてしまった「考えること」は、もう「肉体としての私」からは独立しています。

私を知らない人にも伝わりますし、私が死んでも関係ありません。

精製して純化されたものですから。

少なくてもサーバーから削除されるまでは誰にでも読める状態でここにあり続けます。

昔から同様のことが「書籍」の中で行なわれてきました。

だから今でもシェイクスピア手塚治虫も読めるんだと思います。

従って、あんまり恥ずかしい話は書かない方が良いと思うんです。

そうは思っていてもこの文章自体が、そしてこのブログ自体がかなり恥ずかしいものになっているのはどうしたらいいんだろう。