どことなくなんとなく

研究の息抜きに綴る適当な文章

ドッペルゲンガー

今、結構たくさんやることがあって、地味に忙しいです。

忙しいことは決して悪いことではないと思うのですが、多分良いことでもありません。

こんなときは、ついつい「自分がもう一人居たら…」という妄想に捕われます。

パーマンに出てくるコピーロボットみたいな感じで。

前もちょっと書いたことありますけど。

「自分が二人いる」ということは、自分も相手も「私」なわけです。

一般的に性格や考え方などのパーソナリティは「遺伝」と「環境」によって形成されることになっています。

つまり「自分が二人いる」ためには、二人の自分の「遺伝」と「環境」が同一でなければなりません。

「私」の肉体が二つあれば、「遺伝」に関しては同一であると言えますが、難しいのは「環境」を同一化することです。

「自分が二人」欲しい理由は、自分が二人いれば作業を手分けして行うことが可能だからだと思うのですが、このことが「環境」の同一化を困難にしています。

仮に二人の「私」を「kasa1」と「kasa2」とすると、手分けをして別々のことを行うことで「kasa1」と「kasa2」は異なる経験をしたことになります。

異なる経験というのは「異なる環境」であり、身体的精神的に異なる経験を積むことは「kasa1」と「kasa2」のパーソナリティを乖離させる原因です。

この乖離が進むと「自分が二人」ではなく、遺伝的には同一の人物が二人、「双子」くらいには違った人物になってしまいます。

これを防ぐためには「kasa1」と「kasa2」の記憶および身体状況をシンクロさせねばなりません。

パーマンコピーロボットはおでことおでこをくっつけることで記憶の共有が為されますが、そのような感じで。

そして記憶の共有が為された時点で、その記憶は「kasa1」が経験したものなのか「kasa2」が経験したものなのかが分からなくなります。

「kasa」の経験です。

同様に身体状況、例えば疲労や怪我なども同期する必要があります。

こう考えると、「自分が二人いる」ことで体や心にかかる負担が二倍になることが分かりました。

心身共に疲弊しそうですから、やっぱり自分は一人でいいです。

それにしても「自分が二人」というのは、考えると結構面白いです。

上記のような「ちょっとした経験の差」が、どのようにその後の運命を乖離させていくのかについて比較可能となります。

例えば「右足から歩き始めた場合」と「左足から歩き始めた場合」でその後の運命ががらりと変わる様子を観察できるかもしれません。

概念としては「パラレルワールド」に近いもののような気もしますが。

ブログをやってる「kasa1」とやってない「kasa2」、「kasa2」の方が幸せな人生だったとしたらちょっと笑えないなと思いましたが、比較する術はないので安心です。