どことなくなんとなく

研究の息抜きに綴る適当な文章

戒め

このブログで何度か、ヴォルテールのこんな言葉を取り上げたことがあります。
「私は君の言うことには反対だ。しかし、君がそれを言う権利は死んでも守る。」

どことなくなんとなく;議論にならない
どことなくなんとなく;話せば分かる?

どっちも愚痴がメインのエントリなので、読む必要はありませんが、一応参考です。

この言葉って、議論する時だけでなく、自らが情報を発信する場合にも心に留めておく必要のある言葉だと思います。
自分が何かを言う権利を有しているということは、他の誰かだって何かを言う権利を有しているわけで。
でも、「それを言う権利」を得るためには、どれほどの「義務」が必要なんだろう、ということも、最近少し考えるようになりました。
その「義務」は、どれほどのコストなんだろうか、と。

もちろん、状況やタイミングによって一概に言えるものではないと思いますが、最低限、他人に不快感を与えない(与えようという意思を込めない)ことではないかと、今のところは考えています。
文章の受け止め方は千差万別ですから、万人に「不快感を与えない」ことは難しいかもしれませんが、少なくても「そのような意思を持たない」ことは可能だと思います。
明らかに悪意の込められている文章は、読んでて何となく分かりますしね。
このコストを支払った上で、「それを言う権利」は得られるのかな、と。
意見自体が対立することは、むしろ当然ですし。

こんな風にグダグダと色々と気にするようなら、始めから「それを言う権利」を行使しないのが、本当は一番ラクなんです。
「口は災いの元」ですしね。
今風に言うと「ブログは炎上の元」かな。
ま、それでも色々と適当なことを言えるおしゃべりって、結構楽しいんですよね。