どことなくなんとなく

研究の息抜きに綴る適当な文章

流れゆくもの

久しぶりに筆をとろうと四苦八苦しているうちに気づけば7月も終わり、8月も中盤に差し掛かろうかという時期になっていました。
年月の過ぎ去るのは大変早く、このままにしていると齢だけを重ねて(先日31歳になりました)、しかし年齢ほどには中身の成長を伴わない人生になってしまうのではないだろうか、と懸念している気も、しないでもないような気がするときも、なくはないような感じです。

時の流れは、水の流れとは違い、意識しない限り、その「流れ」を感じることをつい忘れがちです。
水であれば、流れの中に身を置くと、その「流れ」を全身の感覚として捉えることができるのに対して、時は自身の全身の感覚を残して行ってはくれません。
そっと、ほんの少しだけ、痕跡を残して、あとからその痕跡の多さに気づいて驚くのが常です。
時の痕跡に対して、自分の残した痕跡の少なさに気づいて驚くのが常です。

このようなことを少しでも是正するためにも、全身の感覚として捉える水の流れのように、時の流れをやはり全心の感覚として捉える必要が出てくるのではないかと、最近は考えるに至りました。
体の大半は摂取した水でできていて、心の大半は積み重ねた時でできているのですから、難しいことではありません。
水は低いところに流れていきますが、時は低いところに流れるわけではありませんから、心も怠惰な方向には流れないはずです。
流れないはずなのです。
はずなのです。

 

 

 

でも、私の心はちょっっと水分が多めかもしれませんので、あしからず。