大学院生と言う立場
非常に書くために必要なエネルギーが大きな話題で、正直書きたくないんですけど、書くのが適切だろうと思うので書いてみます。
同大によると、自殺したのは理学研究科で生物関係の研究をしていた博士課程の男性大学院生(当時29歳)。大学院生は昨年8月、研究のデータ集めをした滋賀県内で自殺した。遺書には指導法への不満などはなかったが、翌月、両親から男性准教授(52)の指導に問題があったのではとの指摘を受け、内部調査委員会を設置していた。
大学院生は2007年12月、博士論文の草稿を事前提出したが、准教授は大学院生と十分に議論せず受け取りを拒否。准教授は06年11月ごろにも、論文提出を延期するように指示しており、大学院生は2年連続で博士号の取得に失敗した。昨年3月まで博士課程の学生で、今は一応大学教員で、そして大学が大学なだけに、とても書きにくい話題なんです。
この話を知ったときにはもやもやとした気持ちになりました。
しかしある意味最も理解しやすい立場でもあるので、思ったところを書いてみたいと思います。
まずは、大学院博士課程は、博士号の取得に失敗すること自体はよくある話です。
自分の知り合いにも何人かいます。
しかし、この場合問題になるのは、この部分。
調査は、残された論文草稿やデータを見る限り、大学院生の研究は博士論文の審査水準に到達していたと判断。准教授が、具体的な指示を与えず、適切な指導を行わなかった結果、大学院生は学位取得や将来に希望を抱けなくなり、自殺に至ったと結論づけた。
「論文が○報必要」とかの条件があればその限りではありませんが、それを満たしていたのなら審査されないとおかしいです。
従って、この新聞報道を信じるならば、指導に当たっていた准教授に非があるのは疑いようがありません。
しかし、このケースを「特殊な教員の起こした過失」に帰結してしまうのは危険です。
システムの問題、教員の問題、大学院生の問題、色々とはらんでいます。
今回の事件は、これらの複合要因だと思います。
問題点については思いつくだけでも多すぎて、ここではちょっと書ききれません。
少なくても今回の事件については、学生の側が「研究室」「大学」をもっと柔軟に選択することが出来れば、つまり研究室間、大学間での「移動」がもっと簡単に行えるならば、恐らく防げた事例です。
自分に合わない教員のいる研究室なんてとっとと見切りをつけて、別のところに移動しちゃえば良いだけですから。
「学生」の最大の利点は、「選択の自由」があることです。
教員は学生を選べませんが、学生は教員を選べます。
そのような、柔軟な選択をしやすくするシステム作りをすることが、再発を防ぐ一つの手だてになるのではないかと思います。
あと、これから自殺しようかな、と考えている人達に対して。
「博士号」には死ぬほどの価値はありません。
死ぬ前に一度、考え直してください。
大学は「狭い」です。
狭いからこそ視野狭窄に陥ってないか、よく考えてみて下さい。
「問題点」については機会があったら書きます。
すでにこのブログでも、大なり小なり書いてはいるのですが。