どことなくなんとなく

研究の息抜きに綴る適当な文章

優しさの限界

窓の外をサイレンがけたたましく通り抜けていきました。

今日は風が強いし空気も乾燥しているので、どこかの誰かが火事に見舞われてしまったんだと思います。

気の毒にな、と思います。

しかし、それ以上の感情は湧きません。

どこかの誰かがどんな目に遭おうとも、自分には関係のない話だからです。

彼らに割り振るための優しさのリソースは、残念ながらありません。

自分自身を含めて、人間には優しくできる限界があると思います。

近しい人ほど、大きなエネルギーを使って、心を砕くことができる。

自分からの距離が離れれば離れるほど、割り振るリソースが減っていく。

知らない人に対しては、限りなく残酷にもなれるのかもしれない。

目の前で困っている人ならともかく、遠い場所で困っている人がいたとしても、具体的なイメージが湧きにくいです。

「世界中の困っている子供たちを救おう」のような募金はしたことがありませんし、募金をしたとしてもそれは「救いたい」からなのか「自己満足」に浸りたいからなのか。

とても難しいと思いました。

またもっと対象を大きくして「地球に優しく」というフレーズがあります。

省エネとか、リサイクルとか、そういうのが頭に浮かびます。

確かに地球規模での環境への負荷の軽減は必須です。

今までのような環境破壊は、そうそういつまでもできるものではありません。

一人一人の努力は必要だと理解できます。

しかし、「環境への負荷を軽減させなくちゃ」という意識で省エネとかをしてますか?

もちろん実践している人も居るとは思うんですが、私はしていません。

どうにかしなくてはならないのは、もちろんその通りなんですけど、対象が大きすぎてイメージができません。

また、自分一人の力はあまりにも小さすぎることも理解しています。

私一人が省エネや環境負荷を軽減する努力をしたところで、全体から見れば誤差の誤差にすぎないんです。

誰かがホームシアターで大音量で映画を見たら、消し飛ぶくらいの省エネです。

やる意味を見出せません。

私のように考える人が大多数だからこそ、街中にはコンビニが溢れているんだと思います。

「地球に優しく」は対象が大きい分だけ、「優しさの供与体」も個人のような小さなものではなく、もっと大きなレベルでの実行が大切だと思います。

そしてその構成要素である「個人」に実際に行動させるには、もっと分かりやすい形での「見返り」が必要。

低排出車にある優遇税制みたいなものが。

「人に優しく」は自分の目に映る人達だけで精一杯なのではないかと思います。

それ以外の人達を気にする余裕もありません。

せめて、サイレンが赤信号を駆け抜けていく時に、「邪魔だな」とだけは思わないようにしたいです。