どことなくなんとなく

研究の息抜きに綴る適当な文章

光陰

大昔に書いた記事が、なんとなく今の私を表していて、実感を込めてなんとなく理解できたため、再掲することにします。

どことなくなんとなく;光陰(200645日)

一日は24時間。一年は365日。
時間だけは万人に平等だと良く聞くけれど、本当にそうなんだろうか。

人間、歳をとって社会的地位が上がるに伴って、或いは結婚や子供などの要素が加わることによって、「自分のために使える」自分の時間は確実に減少します。
「自分以外の何か」に忙殺される時間が段々増えていきます。
かと言って、そのことが悪いことかと言えば、多分そうでもないはずです。
「子供のため」「家族のため」「仕事のため」と納得できる時間の使い方である場合も多いと思うからです。
ただし、純粋な意味での「自分のため」の時間は限られたものになると思います。
ここで「純粋な意味」と書いたのは、上記の「子供のため」「家族のため」「仕事のため」も最終的には「自分のため」であるとも考えられるからです。
今回書きたいのは、一義的な意味での「自分のため」の時間ですので。

私自身、何となく納得していた話に、「歳をとると時間の進み方が早く感じる」という現象がありました。
「現象」と言っていいか分かりませんが。
私が納得していた説明としては、「歳をとると、今までに経験した時間に占める一定時間の割合が減るから、短く感じる」という説明でした。
つまり、10歳の人にとっての1年は10分の1の時間ですが、50歳の人にとっての1年は50分の1であるため、短いと感じてしまうというものです。

今日ちょっと思ったのは、「時間が短く感じる」のは、そもそも「自分の時間が少ないから」であるのではないからかな、ということです。
たまの休日が「あ、もう終わりか」と感じてしまう気持ちにちょっと似てるかもしれないです。
時間はあるように思っても、意外に少ないのかもしれません。

私は今、25歳です。
大体25歳の人は、働いている年齢だと思いますし、結婚して子供が居てもおかしな年齢ではありません。
でも私は未だに学生という身分で時間を消費しています。
今学生であることは、紛れもなく私の意思で進学したわけですし、我が侭を通した結果ですので、「自分のための時間」にカテゴライズされて然るべき時間です。
「24時間」は平等だけれど、「自分のための時間」はきっと多いんだと思います。
でも、果たしてこの時間を有効に利用しきっているだろうか、と考えた場合、残念ながら現状では完全に肯定することが出来ません。
時間はあるようであんまりないし、今のうちにもうちょっと頑張ろうかな、という話。

27歳現在の私は、この頃思っていた未来にいるのだろうか、そしてこの頃思っていたように時間を使えているんだろうか。
考えるとキリはないのですが、少なくても「自分のための時間」は減っているように感じています。
でも、それはそれで悪くもないかな、とも思えているので、きっと悪くない時間の使い方をしてきたはずです。
そう思い込んだ方が、きっと色々と幸せなはず。