どことなくなんとなく

研究の息抜きに綴る適当な文章

偏光レンズ

自分と性格がだいたい180度くらい違うだろうなあ、という人と最近接点が増えています。
その人は全然悪い人じゃなくて(だからと言って私が悪い人と言うわけではないですよ)、サバサバしていて気の良い人で(だからと言って私がジメジメして気の悪い人と言うわけではないですよ)、一緒にいて不快なことは全然ない(私と一緒にいても不快ではないですよ!)のですが、折にふれて「この人とは正反対なんだなあ」と実感することが多いです。
一番顕著にそれを感じるのは、二人で同じ物事を見聞きしたときです。
同じ事柄に触れているのですから、そこから各々の人間が抽出する情報は、程度の差こそあれ、質的、量的に大きな差がないだろうと思っていました。
それが、私とその人とでは、その「抽出する情報」が全く違うことが分かり、このことはとても興味深いのと同時に少し気をつける必要があるなあ、と実感させられました。
どのくらい違うのかというと、「180度くらい」。 

その人とは共同研究者と言う間柄で、歳が同じこともあり、有難いことに「友人」として見てくれています。
数ヶ月間、一緒に研究を進め、色々と話を重ねるにつけて、最初は極微量だった違和感がどんどん増えていったのを覚えています。
コップに水が半分入っていて、それを「半分も入っている」と捉えるか、「半分しか入ってない」と捉えるか、が感覚的には近いです。
その事実に対して、ある程度の誇張表現が加わると「結構入ってたよ」になるか「あんまり入ってなかったよ」になるかくらいの差が生まれます。
これは、同じ事柄を私とその人とが同時に見聞きしていた場合は、「あいつはこう言ってるけど俺はこう思うなー」と認識のズレを修正できますので、大きな問題にはならないのですが、私は全く見聞きしておらずにその人だけが見聞きした事柄を、その人から話を聞くと言う場合には、大きな問題となり得ります。
その「話」は恐らく、私が同じ事柄を見聞きした場合とは「180度くらい」違った話になっている可能性がかなりあるからです。

私とその人とは、同じなのは歳だけで、性別も、これまで得てきた経験も、全く違います。
私は大学に入ってからずっと大学で、研究に携わることを10年くらい続けてきたと言うある意味変化に乏しい経験値なのですが、彼女はバリバリの臨床の医者で、研究にも携わるようになったというキャリアを持っています。
私は未婚で、彼女は既婚で、私はずっと仙台に住んでいて、彼女は何箇所かの土地に住んだことがあって、と状況も結構違います。
これだけを見ると私のほうが圧倒的に経験不足ですが、かと言って、それほど殊更取り上げるほどの特殊事例な間柄というわけでもないように思います。
この程度の差でしたら、そこら中にあると思います。
にも関わらず、私と、その人との間に横たわる「溝」は、一体どのようにして「溝」として存在するようになったのか、と言うのは、考えるととても興味深いです。

最終的には自分の持っている認識をもとに判断をしていかないと、自分にとって都合の良い結果は得られないのではないかと思っています。
私の認識をもとにその人が判断すること、あるいはその人の認識をもとに私が判断することは、判断した人にとっては誤った判断になる可能性が極めて高いです。
お互い、相手に「No」と言える間柄を続けるのが、もっとも重要そうな感じです。