遺伝子工学についての雑感(補完編)
先日、「遺伝子工学についての雑感」と題してエントリを書きました。
私はこのブログのエントリと同じ内容をmixiにも投稿しているのですが、そこでマイミクのTさんから非常に鋭いコメントを頂きました。
彼への私の返事コメントと併せて、上記のエントリの補完となるのではないかと考えたため、Tさんのご了承の元こちらのブログに名前以外の改変や省略をせずに転載します。
少し長いです。
Tさんのコメント
遺伝子の研究は、おそらく宇宙開発以上に、現代の知的フロンティアだと思います。新しい考え方の医薬品や、免疫反応を抑制できる臓器移植など、有益な知見や産業があふれ出るでしょうし、基礎研究の進歩や、それへの投資の重要性も認識されていくでしょう。私の返事将来kasaさんが食いっぱぐれることなど、世界が許さないでしょう。あの研究者を、なんとか働かないで食っていけるようにしてあげようと、世界が望むでしょう。ちょっと言いすぎですか。(‥;
その上での話なんですが、遺伝子組み換えと生命倫理の関係の問題は、非常に難しいと思います。安楽死とか脳死状態での臓器移植とかと肩を並べる、100年規模の問題になってしまう。
その理由の1つは、おっしゃるように、この分野の知的格差が激しいことですね。
ネットでは「GM野菜を非難するのは無知」と強い調子で主張する研究者の(多少感情的な)意見をよく目にします。知らないまま「絶対安全です」と連呼されてしまうと、現状の原発みたいに不信感ばかりが育ってしまう。これだと悪循環で、みんな不幸ですよね。
高校で簡単な実験を体験するの、いい考えだと思います。ある種に対して異種の遺伝子を導入しようとすると、防御反応が起きるから、それを殺す。それによって意図しない突然変異も起きるかもしれないが、たいてい大丈夫だ。ともかく、みんなの役に立つ物ができましたよ。あとは社会が、倫理観にもとづいて判断する問題ですよ。…そういうふうに風通しよく語られるといいなーと思うんです。
上記の「知的格差」の次に問題なのは、問題があまりに複合的で、単純化できないこと。生命倫理の側から見れば、「個体にとって安全なら是」という問題ではないわけですね。研究者の手から離れた途端、泥臭い諸問題がくっついて回る。
大豆の例でいうと、人類が農耕を始めて以来ずっと自然が与えてくれた種子が、いきなり「著作物」になった。必ずM社の除草剤を使わなければならない。M社は常に警察のように見回っていて、収穫から来年分の種子を取るだけでM社に身辺調査までされた上、提訴されてしまう。北海道では、GM大豆が安全だという一点に対する確信のあまり、農薬取締法に違反してまで強行栽培した男がいました。彼は環境への影響の問題や消費者の安全志向には一切耳を貸さなかった。M社の資料を受け売りするばかりで、世間の非難をことごとく無視したんだけど、最終的には「収量が期待と違った」ことで幕引きとなりました。
このように、世間が気にする問題は、「個体の安全」よりも、複合的な心配…環境(種の保存)やら政治的なことやら、文化に関わることのようなんですよね。要するに慣習や社会規範の問題。死体を焼いて埋めておくお墓みたいなもので、論理的にはもっとエレガントな解があるにしても、人々にとって大事な世界なんだろうと思います。
ただ、世の中に「生命倫理」なるものと折り合いのついた事象なんて、本当はそう多くないと思うんです。倫理学は常に後追い。ましてや人が直感や経験則で論じる是非なんてコロコロ変わっていく。
20世紀前半に夢のテクノロジーだった放射線が、いつしか無条件に怖がられるものになってしまった。怖がりつつも、ラジウム岩盤浴なんてものなら平気で利用している。自然観だってそう。肉や野菜やペットの生産現場を見たことがないかのように、「自然のままが一番」とか言ってる。牛さんかわいそうとか。まるで一貫性がないんです。(‥;
ネズミの背中で作った耳やブタの心臓で命が助かった○ちゃん、なんて話に世間が感動するのは、あと何年後でしょうね。
それが数百年後だとしても、それはそれ。
kasaさんの将来に悪い影響はないと思うってことなんです。;;
>>Tさん正直、私のエントリやコメントは穴だらけなんですが、それでも何らかの補完になればな、と思い転載することにしました。おっしゃること、いちいちもっともでそれに対する適切なレスポンスというのは中々難しいですが(苦笑)、一つずつ。
バイオサイエンス、特に遺伝子を用いた研究は、これから盛んになることはあっても衰退することは(しばらくの間は)なさそうです。
医療面では近年発見された新しい現象も応用され始めていますし(RNAi法などは特に有用)、もちろん食料(農業)面でも欠かすことのできない技術です。
今は原因不明の疾患が、明日には治療法が発見されるかもしれない、そんな感じです。
このような世界で生きていくためには、自分たち専門家が頑張るのは当然のこととして、専門家以外の人達もある水準の知識を持つことが非常に肝要となるはずです。
正確な知識に立脚した上で、倫理面の議論はなされるべきで。
技術の進歩に倫理面が追いついていない部分もあるので、とても難しい問題をはらんでいることは全くの同意です。
用いる動物種や方法論にもよりますが、遺伝子導入はほぼ狙ったとおりに拒絶反応を抑えて行うことも可能です。
大雑把に言って大腸菌ならば片手間にでも、マウスだとちょっと大変、ヒトだと技術的問題よりも倫理的問題で大変、という感じでしょうか。
高校レベルで可能なのは正直大腸菌への遺伝子導入レベルだとは思いますが、概念として知っていることを経験として体験できることはやはり重要だと思っています。研究者は知らない人を非難しがちなんですが(自戒も込めて)、一方で十分な啓蒙活動を行っているかというと決してそうでもなく。
今は大分情報を発信しやすくなってはいますけどね。
余談ですが個人的には、日々の研究を広くオープンにして世界中の研究者(やそれ以外の人達)と議論できる場が出来れば最高だなあ、と思っているのですが(ちょうどSNSみたいな感じで)、実現は中々難しそうです。
上記の「正確な知識に立脚した倫理観」にも、きちんとした教育は必須です。
研究者の手から離れた瞬間、泥臭い問題がついてまわるというのは、まさに仰るとおりです。
大豆、Tさんのおっしゃる例はおそらく「ラウンドアップレディ」のことだと思うのですが、本当にこの辺は難しい問題だと思います。北海道での事件も記憶に新しいですね。
はっきり言ってこの手の問題は研究者からは離れてしまった部分が大きいのですが、だからと言って研究者に責任が無いというわけではありません。
上手に整合性を取る必要のある事柄なんですが、なかなか難しいというのが正直な感想です。
「個体の安全」だけが問題であるならば、遺伝子改変作物に関しては「ほぼ安全」と言えると思います。
少なくても普段摂取している食物と同程度には安全です。
しかしTさんの仰るとおりそこに「環境」や「文化」が入り込むために複雑でややこしい問題になってしまう。
加えて、上記の知的格差の話と一部オーバーラップしますが、「環境」「文化」に大きな影響を与えうることとして「遺伝子汚染」が挙げれらます。
遺伝子組換えをした生物は完全な隔離環境での栽培・飼育が必要なのは言うまでもありませんが、これが不完全だと「遺伝子組み換えした遺伝子」が自然界に拡散することになりかねません。
これを防ぐためには相応の知識と技術が必要ですが、現状では不十分であるように思います(専門家が専門施設でのみ行うのならば話は別ですが、大規模栽培となるとそうはいかなくなります)
「倫理観」は本当に難しいですね。
「自然のままが一番」でも肉も食べるし農作物も食べる。
薬に副作用があれば文句を言う(当然ですが)
これらの裏には膨大な数の「自然じゃない」動物たちがいるんですけど、普段はなかなか意識されていないように感じます。
当事者としてはなかなか複雑だったりもします。
ピンポイントで臓器を作らせる試みはあちこちでやられてますから、そう遠くない未来なんじゃないかと(笑)
体外受精も最初に行われたのはほんの20年程度前に過ぎませんし、当時は大きな議論となったと聞いていますが、すでに何万件も行われていて、すでに規定事実のように議論もなされなくなりつつあります。
やっぱり難しいです(苦笑)
私が将来にわたって食いっぱぐれないように(笑)、真面目に次の受け入れ先、研究先を探して頑張ろうかな、と思いました(笑)
中々一筋縄ではいかない問題ですね。